celebes2005-04-13

  • 今日はスラウェシ科研・研究協力者の浜元聡子さんの散文です*1。浜元さんはマカッサル海峡の小さな隆起サンゴ礁の島に住み込み、すっかり陸の生活から遠ざかってしまった経験があります。たまに陸に上がると、なにもかも珍しくて仕方がなかったある日のできごとなのでしょう。

■馬車に乗って

1999年の乾季が始まろうとしていた頃だったと思う。住み込みで調査をしていた島を離れて、スラウェシ島本土の村落部を訪れた。マカッサルに住む友だちの姉が妊娠7ヶ月を迎えたので、パッシリという安産祈願の儀礼がおこなわれるとのこと*2。その儀礼を見るのが好きだと前から話していたのを忘れずに、友だちが招待してくれたのであった。ブギス−マカッサルの儀礼は、大がかりなものが多い中、パッシリは比較的静かに、あっさりと終わるところが気に入っていた。女性中心の儀礼であることも、参加者としても観察者としても居心地がよかった。
私たちはマカッサルから乗り合いバスで北へ約1時間のところにあるマロス県から、ベンディという馬車に乗り換えて、友だちの姉の嫁ぎ先に向かった。マロス県の中心地から西の方、海岸地域一帯は、水田と養魚地が広がる。もともとは、マングローブの林を開拓して田んぼが作られた土地であった。このごろは、より高額の現金収入が得られる養魚地に転換される水田が多くなった。汽水帯の地盤が弱いからなのか、この田園地帯を縦横に走る道は、ほとんどが舗装されていない。雨季には水田や養魚地から溢れた水で冠水し、乾季にはからからに干涸らびた道から土埃が舞い立つ。家屋が集まったところには、小さな屋敷林が木陰を作る。畔道の縁にところどころ木が植えられている以外には、見渡す限り平らな水田と養魚地が続いている風景が広く見える。島暮らしの身には、とても新鮮な感じがした。
普段、徒歩で一周20分しかない島で生活をしていたので、街に出てくるときしか乗り物には乗らない。それに、日本でも何処でも、馬車に乗ったことなど一度もなかった。オジェックというバイクの後ろに人を乗せる交通手段もあったのだが、ゆっくりとあたりの風景を見たいと思った。馬を御するおじさんの横に座り、農村の風景をきょろきょろと見ていると、途中から乗り合わせてきたおばあさんが後ろの座席から手を伸ばして、私の肩をとんとんと叩いた。
「あんた、うちの孫のヨメにならんかい?」
まったく初めて会った、どこの馬の骨ともわからない私を、孫のヨメにしたいと思うのは、いったいどのような理由によるものだったのだろうか。内心、それもいいなあと思いつつも、まだ学生なんだとかいって穏やかにお断りしたように記憶する。途中の小さい集落で、おばあさんは手を振って馬車を降りた。馬車は何事もなかったように、凸凹の田舎道をまっすぐに走り続けた。
それから何度も馬車に乗る機会があったが、二度とそのような縁談を持ちかけられることはなかった。何度も何度も、スラウェシに出かけてしまうのは、いつかまたあのおばあさんのような人に出会わないかと、実は期待しているからなのかもしれない。

*1:浜元聡子:地域研究・文化人類学京都大学大学院人間・環境学研究科認定単位取得退学後、日本学術振興会特別研究員PD、京大東南アジア研究所非常勤研究員・国立民族学博物館外来研究員を経て、京都大学東南アジア研究所教務補佐員。京都大学博士(人間・環境学)。

*2:パッシリは、妊娠7〜9ヶ月目のいずれかにおこなわれるブギス−マカッサルの儀礼。いずれ赤ん坊を取り上げる予定の産婆が司る。何種類もの伝統的な儀礼用の甘い菓子をボサラという器に盛りつけて、部屋一杯に並べた空間では、イスラームの宗教的指導者イマームコーランを詠み上げる。その奥の主寝室のベッドでは、お腹を丸出しにした妊婦が横になっている。産婆はコーランに唱和しながら、妊婦のお腹にコメを一掴みまき散らし、用意している若いニワトリにそれをついばませる。ニワトリが逃げず、慌てず、コメを食べたらなら、出産は無事に済むと考えられている。儀礼の内容・段取りには地域差がある。この例は、マカッサル海峡島嶼部南部およびマロス県沿岸部地域のもの。