写真は、2004年12月に、マカッサル海峡スプルモンデ諸島南部のコディンガレン島Kodinggarengで撮影したものです。マカッサル海峡地域の南部には、コディンガレン島のほか、バランロンポ島、バランチャディ島などに、華人墓地が残されていたとのこと。このうち、バランロンポ島の華人墓地は、1990年代初頭にハサヌディン大学海洋学部の研究施設が建設される際に、マカッサル市内の華人墓地に移動されたとのことです。それ以後も、島内に点在する墓地にマカッサル市内に住む華人系住人が島にお参りに来ます。彼らがお参りするのは、「島の祖先」の墓所。島内には5基が現存します。これらの墓所はすべて、ムスリムである先人が埋葬されていると伝えられますが、<島全体にとっての祖先>と位置づけされています。だから、マカッサル市内の華人系住人で、現在では他の宗教を信仰している人たちも、参詣に来るのでしょう。歴史的文献によれば、島嶼部地域に交易や地域商業の拠点を築いた華人商人は、島の女性と結婚した例が多いとのこと。今現在、ムスリムではない華人系住人は、自分たちの祖先にもあまねく慈悲を与えたもうた島の守り神に感謝するために、年に一度の墓参りをおこなうのかもしれません。
バランロンポ島のカンポン・チナ(華人集落)と今でも呼ばれる集落で、家系図の聞き取りをすれば、かならず2,3代前に、「弁髪の華人がいたよ。この人がそうだ」と言われる祖先が登場します。島に残った子孫は、ムスリムとなり先祖伝来の土地家屋を守ってきました。マカッサルへ出て、さまざまな商売に従事するようになった子孫は、今でも家族のつながりを大事にし、イスラームの行事がある度に島を訪れて、贈り物をしたりさまざまの儀礼に協力します。宗教や民族のあり方は実に多様です。また、南スラウェシ州内でもところが違えば、また別の関係のあり方が見えるでしょう。さまざまな事例からどのようなことがいえるのでしょうか。なにか結論めいたことがいえなかったとしても、大事なことは「インドネシア」という大きなことばで説明できることと、べつの括り方で説明できることの両方があることをわかることではないかなと考えています。べつの括り方としての「スラウェシ地域」がどのようなものであるのか、さまざまな観点から探ろうとしています。
コディンガレン島には、亀甲墓タイプのお墓が数基、残されていました。墓碑銘は、漢字表記のほかローマ字表記でムスリム名が併記されています。バランロンポ島に一基だけ現存する華人の墓碑銘では、漢字表記、アラビア語表記、マカッサル文字表記(ロンタラ文字)が使われていました。2004年から、マカッサル市内のラ・ガリゴ博物館(フォートロッテルダム砦内)の学芸員たちにより、島嶼部地域に残された歴史的遺物の修復・保存活動がおこなわれています。
写真の墓地に関する情報は、この本(http://www.selectbooks.com.sg/gettitle.cfm/ID/27330)では取り上げられていませんでした。