• 昨日、アチェ関連の講演会やイベントの情報を掲載しましたので、関連する散文です。2004年11月25日から2005年1月24日まで、スラウェシで調査をしていた浜元聡子さんが書いています。

地域とフィールドと私と
地震が起きた日の朝、私は島からマカッサルへ出てきている。その時にいつものように日本の実家に電話をかけている。これがその後、「生きているときにかけた最後の電話」と思われてしまうことになった。地震が起きたのはその数時間後のことである。
その日の夜のテレビニュースでは、確かにアチェ地震が起きたことは報道されていた。しかし「まだなにも詳しいことはわからない」というのに等しいくらいの内容であったように思う。
翌朝、テレビをつけたとき、事態は一変していた。通常番組を放送している局もあったが、ほとんどのテレビ局ではかなり大きな規模の地震が起きたということを繰り返し伝えていた。ニューズスタンドで全国紙と地元紙を買ったが、後者の話題の中心はまだ地震のことではなかった。朝食後、インターネット屋に行き、ニューズサイトをチェックしてはじめて、事態が想像以上な規模であることを知る。津波の被害があったのは、インドネシアだけでなく近隣数カ国にも及ぶものであったとのこと。一通り、ヘッドラインだけを確認して、デンパサールからの朝便でマカッサル入りする田中耕司先生*1とKさんを迎えに空港へ向かった。先生に会って開口一番、「日本にすぐに連絡したほうがよい」と言われる。その割には、昼食を食べに出たままハサヌディン大学での打ち合わせに行ってしまったので、自宅に電話した時はすでに夕方になっていた。
「生きてたの!」と、普段は何事にも動じることのない母が叫んだことが、私をひじょうに驚かせた。すでに、学部時代の友だちや高校時代の部活の友だちが安否確認の連絡をしてきてくれたとのこと。母は、「昨日の朝、電話がかかってきたのが最後で以後、連絡はない」と「事実」を正確に伝えたらしい。。日本ではインドネシアの情報はほとんどなくて、タイやスリランカなど、比較的日本人が多く滞在していた地域の情報ばかりでね、とも言われる。インドネシアにおけるアチェの政治的位置付けは、国内的にこそ知られているとはいえ、インドネシア国外ではそう知られることでもなかったなと、今更ながらに思い出した。アチェには日本人観光客がいるはずがない。「スラウェシとスマトラって、おなじような名前だけどだいじょうぶなの」という母の声を聞きながら、これまで一体何度、インドネシアの地図を出してきて説明してきたことかと苦笑いしてしまった。
とりあえず、夕食までの短い時間に、もう一度だけインターネット屋に行ってみた。大学の事務関係からのメールが多数、幼なじみや親しい友人たちなどからの安否を問うメールが多数。ちなみにスラウェシ科研のメンバーからは一通もなし。スラウェシがどこにあるのかを正しく理解していること、そしてインドネシア語のニュースサイトを読めるということが、どれほど正確な情報を収集したり予測することを可能にするのかということを深く考えた。

島に帰ってから見聞きした、地震をめぐる人びとの考え方−たとえば、それがアチェで起きたことをめぐるあらゆる言説−は、また別の機会に書くことにしよう。地震に関する情報源が、新聞・テレビ(ほぼMetro TVというニュースチャンネル)・インターネットであったことが、私に奇妙な距離感を覚えさせる原因だったのかとも思う。悲惨な情報を現実のものとして頭に詰め込んで島に帰ってきたところ、現実のインドネシアに暮らしている人たちは、遠い場所で起こった出来事について別のとらえ方をしていることに気付いた。そのギャップをなんと説明してよいのか、また解釈したところでなにが言えるのか。おそらく、もう一度インドネシアに行って、私自身が「ポスト地震」を見なければわからないのかもしれない。アチェ地震に関するさまざまな観点からの考察が、学術的な場からもなされている。私が取り組むべき課題があるとすれば、それはおそらく、国内にいながらにして情報から離れたところに居た人びとにとっての「スマトラ沖大地震」なのかもしれないと思った。

*1:スラウェシ科研の研究代表者。