インドネシアの村落部では、アリサンという頼母子講の一種がおこなわれているところが多い。
ひとつのアリサンは、親が一人と、子となるメンバーからなる。週ごと、10日ごと、あるいは月に一回の割合で、親は子からお金を徴収し、決められた日にメンバー立ち会いの下、くじを引く。くじに当たった人は、徴収されたお金の全額を自由に使うことができる。アリサンによっては、当たった人は親に対して、アリサン運営の手数料を払うことが決められている。自分が当たったあとも、メンバー全員が最終的にはくじに当たるまで、かならず毎月の定額を拠出するのが最低限のルールだ。しかし、自分が当たる前であれば、それまでに拠出した総額から若干、割り引きをした金額で、別の人に「権利」を売ることもできる。
アリサンは、ときには村落内の婦人会(PKK:Pembinanan Kesejahteraan Kerluarga )が率先して、村落の組織的まとまりを促進するためにもおこなわれる。政治的なまとまりとしての意識を高めるためであったり、隣人同士の友好を促進する目的があったりと、くじを当てることが第一義的な目的でない場合もある。アリサンが組織運営される背景に、政治・社会的な目的があることを、私は長い間、知らないでいた。アリサンとは、メッカ巡礼に行くための資金を調達するためのものだと思っていたからだ*1

南スラウェシには、「アリサン・ナイク・ハジArisan Naik Hajj」がある。巡礼講とでも訳せるだろうか。毎回の拠出金額は、月に一回一人あたり、100万ルピアであったり、250万ルピアであったりする*2。一回、くじに当たれば、余裕で巡礼に行くための資金の大部分を獲得できることになる。1998年に東南アジアを襲った金融危機以前は、もう少しだけ、穏やかな金額であった。ところが、南スラウェシの一部の地域では、金融危機によるダメージをまったく受けなかったところがあった。ドル建てで、東南アジア市場向けの輸出産品を取引していたからである。年寄りから小学生まで、一家総出で巡礼に向かった世帯もあった。
巡礼アリサンは、居住地から遠く離れた州都で組織されるものもあった。都会の裕福な人びとに比肩するだけの、経済的ゆとりを持つ、田舎住まいの人もいた。今では、村落部のごく普通の主婦が、くじに当たれば700万ルピアのアリサンを組織していることもある。経済的な背景がどうなのか、それも興味深い。だが、アリサンと宗教実践が、どのような関係にあるのか、そちらのほうがより気になる。
特定の宗教を持たない人間からすると、日々の積み重ねの結果、人生の後半になってから、ようやく巡礼に向かうことは、宗教的に「正しい」ことのように見える。宗教には世俗的な側面があるはずがないと信じている。「一攫千金で、巡礼に行くなんて間違っている」などと、考えているのだろう。しかし、現実には、人生のできるだけ早い段階で巡礼を経験し、それをこれから開花するであろう残りの人生において、最大限活かしたいと思う人も多い。そのために、必死にお金を貯めて、それをアリサンに投資し、巡礼を実現する。この行為に対して、なにが引っかかっているのだろう。
恐らく、「宗教」ということばにとらわれすぎているのだろう。イスラームは宗教ということばだけで、なり立っているものではないのだと思えばよいのかもしれない。「インドネシアの」という修辞を添えた上でだが。そう考えるための手がかりは、これまでにもたくさん見つけてきている。それなのに、他ならぬ、異教徒の私が、イスラームということばに絡め取られている。
地方分権」ということばの浸透具合を確かめるための調査の過程で、さまざまな「宗教的解釈」を教えられることがあった。まったく異なる地平線にあるように見える「地方分権」「巡礼」「アリサン」といった題目が、どのようにひとつに繋がるのだろうか。
6月24日、金曜礼拝の後。アチェ州Bireuen県にて、「むちうち刑」が執行された。なぜか私の頭の中で、アリサンはだいじょうぶなのかという言葉が浮かんできた。その疑問を整理する作業を、進めたいところ。

BBC NEWS | Asia-Pacific | Aceh gamblers caned in public

*1:メッカ巡礼は、ムスリムにとっての義務である。ただし、それだけの「余裕」のある人がおこなえばよいものとされている。長く厳しい旅をするだけの健康や経済的余裕があり、留守宅の生計に支障が出ない余裕がある者が、巡礼をおこなう資格があるとされる。

*2:1.3〜3万円相当。巡礼費用は毎年変動する。この数年は、日本円で30万〜40万円を推移。