呪術師の孫とねこ

  • 今日の散文は、浜元聡子さん(京都大学東南アジア研究所)が書いています。「忘れないこと」を心がける活動の一環のようです。

■ドットロ
一眼レフを首からぶら下げ、小型のリュックを背負い、木の葉のように波間に消えてしまいそうなボートで、あちらこちらの島を訪れると、あっという間に住民の人に囲まれてしまうことがあった。滅多にあることではない。それでも、去年、訪れたいくつかの島ではそんなことが何度かあった。地方分権が施行されて以来、どういう仕組みなのか、遠隔の島々にはあまり行政からのお金が下りてこなくなったため、遠隔地における巡回医療活動がおこなわれなくなったことが遠因にあるようだった。私は医者と間違えられたのだった。遠隔の島では、外国人は大概、医者かNGOや国際機関の人間である。住民からの伝聞だけなので、地方分権進行との関連性が、必ずしもあるかどうかはわからない。とはいえ、、医療関係の活動が相当に、深刻な事態であることは確かなようだった。ある島では昨年の乾季だけで、3人の妊婦が亡くなっている。いずれも、難産であったために、医療従事者のいる別の島へ搬送する途中で、母子ともに亡くなったという。経産婦の経験だけでは対応しきれなかったと聞いた。しかし村落部には、大概、伝統的な儀礼を司る産婆(dukun bayi)がいるはずなのではないか。そう尋ねてみたところ、遠隔地への巡回医療が活発となったときに、役割が自然と、医療従事者に譲渡されてしまったのだという。年老いた産婆は、後を引き継ぐものを育てずに、死んでしまった。この島には巡回医師や巡回看護婦がいるのだから大丈夫だと考えたらしい。伝統的な産婆とはいえ、行政の指導により、近代医学に基づいた出産時のさまざまな医学的処置について、保健所で技術講習を受けるよう指導もあったらしい。これがどうやら問題となったようだった。技術講習を受けるには、別の島に行く必要がある。また、金銭的に余裕のある場合には、マカッサル市内の知人や係累を頼って、病院で出産することが増えてきてもいた。
産婆がいないということは、割礼などの儀礼をとりおこなうにも、支障が出るのではないか、それよりも、病院にかかるほどではないさまざまな体の不調の原因であるセイタン(霊、悪霊)を取り除く人がいなくなるということではないか。そんな心配も沸いてこよう。住民に尋ねてみた。割礼は、見よう見まねでなんとかなるし、病気にかかるのはセイタンのせいではないという。医者にかかるのが一番よいとのことだった。
伝統的な呪術師による病気治療があれば大丈夫だと考えているわけではない。しかし、なんと心細いことだろうかと思った。気休めにすぎないことをわかっていたとしても、いざというときに頼りになる存在がない。行政の支援も滞りがちである。外国人がやってきたら、医者だとばかりに、小さい子どもを抱えた女性が集まってくるのは、当然のことであった。薬は持っていないし、ドットロ(ドクター)はドットロでも、医者のドットロではないのだと、同行の友だちが説明してくれた。青ざめた顔色をした子どもたちに申し訳なかった。
私が住んでいた島では、伝統的な呪術師による治療と、医師や看護婦による医学的な治療とは、相互補完的な関係にあった。その時々の状態や、病人の経済状況に応じて、家族も含めた全員が納得のいく治療を選ぶことができた。呪術師の家に下宿していたので、病院でもらった薬を嚥下するために、呪術師が調合した魔法の水をもらいにくる人がいることもよく知っていた。
何の役にも立たない研究をしているという自負(あるいは自覚)がある。それでも、遠隔地の島の人々が、どのような関係の網の目の中に暮らしているのかを、書くことだけはできる。医者のドットロではないから何もできないのだ、と説明するだけではだめだ。それがどんな形で実を結ぶものであれ、地域の姿を伝えることが仕事なのだと思って、島めぐりを続けていかなければと思う。