2004年12月のインド洋沖地震の際に、ちょうどバランロンポ島に滞在中だったこともあり、スマトラから遠く離れた場所で、人々がこの自然災害についてどのように語るか、その渦中にいただけに、否応なしに関心を寄せることになりました。
地震後、数日後には、被災者を慰めたり、テレビやラジオの向こう側から被災地の状況に関心を寄せる人々に向けて、多くの「キャンペーンソング」が早速に、エンドレスで流されるようになりました。ほぼすべての放送局が、なんらかのキャンペーンソングとともに、救援物資や義援金が必要であることを、訴えかけていたと思います。
バランロンポ島は小さな村であり、日中は電力供給がありませんから、テレビを見るのは夜間だけです。短い時間に定例のドラマを見て、ニュースを見て、その間に人々が地震について語っていることばに耳を傾けると、少なくとも日本的な感覚では理解できないような事柄が、交わされていることに気がつきました。またキャンペーンソングの歌詞にも、はっとさせられることがありました。インドネシアの中でも政治的、宗教的に微妙な位置づけにある場所で起きた大きな自然災害。それがなぜ、そこで起きたのか。通常の理性や理解の許容範囲を超える出来事に対峙するとき、人はそれぞれに合理的な納得の仕方、その事実の受け入れ方を見つけることにより、落ち着きを取り戻そうとします。そのような人々の姿をみて、短絡的な評価を与えてはいけない、この出来事全体の中で、人々のこころの持ちようを理解するようにつとめなければと思ったものでした。
ニャイ・ロロ・キドゥルは、南海の女王。彼女の怒りを買ったことが地震の遠因だというのが、ジャワ地震の受け入れ方のひとつだとしたら、不謹慎ですが、スラウェシで地震が起きた場合、どのような解釈がありうるでしょうか。ガリゴ譚の登場人物をあれこれ思い浮かべてみましたが、いつも船に乗ってどこかに行っているような人々ばかりだからだ、となるでしょうか。
いずれにしても、地震をめぐるさまざまな言説もまた、今後の復興を国家の取り組みの中に位置づける際の何らかの材料となるかもしれません。
こちら(Midori Hirota)のこの記事(ジョグジャ長老たちによる地震の理由 : Midori Hirota)を読んで、アチェ地震のときのことを思い出しました。お一人で精力的に活動されているご様子です。Midori Hirotaさまも疲れを溜めすぎないようにできるとよいのですが。
さて、京都大学東南アジア研究所では、週明けからジャワ地震の情報収集をインドネシア班全体で、取り組むことになっています。その様子も、逐次、こちらでお知らせしていこうと思います。
京都大学東南アジア研究所:浜元聡子)