かれこれ13年近く、バランロンポ島で地域研究の調査を続けてきました。この2年ほどは、長い期間、バランロンポ島を訪れることができず、一年の間に3回ほどは島を訪れるものの、毎回、3日間ほどが精一杯でした。
バランロンポ島には、マカッサルの人、ブギスの人、華人系の人、ムラユの人、マンダールの人、バジャウの人、アラブの末裔の人、ジャワの人などが、住んでいます。どの民族名を名乗るかは、自称と他称では当たり前のように異なります。歴としたムスリムの人であっても、アチ(華人女性に対する呼称)やオンコ、ババ(いずれも華人男性に対する呼称)がムスリム名の前に着く人がいます。わたしの家のibuも、ハッジ・アチ・ママ*1と呼ばれています。
さて、この懐かしい島の家の隣には、おばあさんが3人住んでいました。1920年代から1960年代にかけて、バランロンポ島の交易活動華やかなり頃に、多くの商業船や漁船を所有し、カンポン・チナとカンポン・ムラユのちょうど境目の、島一番の立地に大きな高床式家屋を構えていた華人商人の三人娘です。姉妹の呼称は、長女がノナ・ロンポ、次女がノナ・タンガ・三女がのな・チャッディ、末っ子がノナ・ブンコ(バンコ)となります。ポッポとナンナは、ノナ・ロンポとノナ・タンガが詰まったもの。三姉妹は敬虔なムスリムでありましたが、見た目はどこから見ても、華人のおばあさんでした。プカロンガン柄の色彩が鮮やかで、美しい花の絵がモチーフのバティックは、とくに華人が好んだもの。三姉妹の父親がいつの日か、交易活動の途中で立ち寄ったスラバヤで求めたものだと聞きました。男性用と女性用の対になった動物模様の美しいバティックをみせてもらったこともあります。経年変化と厳しい島の気象条件のため、虫に喰われたり退色した部分もありますが、模様をじっと見ていると、小さな島のダイナミズムが浮かび上がってくるような感覚が沸きあがってきたものでした。
この三姉妹は、わたしを孫のようにかわいがってくれました。わたしもまた、早くに亡くした祖母によく似た、ナンナおばあさんからは、昔の話をたくさん聞かせてもらいました。
昨年1月6日に、ナンナおばあさんの娘さん、ビビ・チェッが亡くなりました。その一年後、今年の1月26日に、ナンナおばあさんが老衰のために亡くなりました。残されたポッポとノナ・ブンコは、それでも足繁く訪れる近所の人や孫たちに囲まれて、ままごとのような台所で、慎ましくも楽しい生活をしていました。そして先月26日、断食月最後の金曜礼拝があった日、ポッポは少し西日が差し込んできた寝床でいつものように昼寝をしていたようですが、そのまま目覚めることはありませんでした。
13年前からおばあさんであった三姉妹は、亡くなったときはもっとおばあさんになっていた筈なのですが、わたしの目にはみな、最初にあったときと同じように、元気でおしゃべりで大きな声のマカッサルのおばあさんでした。カンポン・ムラユのインチェ・マンドゥ、カンポン・バジャウのダエン・アルサ、産婆のサンロ・シッティ、サンロ・ジュムリア、仕立て屋のノナ・スイ、バジャウの儀礼・ティッティリ・バンタンを司る呪術師マ・タッラ。このおばあさん、おじいさんたちのおかげで、たくさんの昔の話を聞くことができました。博士論文までしたものの、その後、今日まで放ったらかしにしてしまっていて、この人びとに御礼をすることがまだできていないことが悔やまれます。
ポッポおばあさんの初七日の儀礼には、たくさんの人が集まりました。島に帰れば、真っ先に挨拶に立ち寄った三姉妹の家も、まもなく取りつぶされると聞きました。経済生活や自然環境の変化だけに目を留めてきたわけですが、人が亡くなるということの変化がそこに加わるようになりました。わずか13年の関わりに過ぎませんが、どれだけ大切な人びとであったことでしょう。ポッポおばあさんの冥福を祈ります。

*1:マ・ラフマが詰まったもの。